作造の長女・信はアメリカで建築を学び、帰国後は日本の女性建築家の草分けとして活躍しました。留学する信に、作造は「路行かざれば至らず、事為さざれば成らず」と書いた色紙を贈って励ましました。「道は行かなければたどりつかない、物事は行わなければ達成できない」という意味です。
作造が日本に伝えた「デモクラシー」、現在では「民主主義」と翻訳されます。現代社会の最も基本的なルールである「民主主義」は、作造によって大正時代の日本に広められたのです。
作造は子どもの頃から体力に自信がなく、運動も苦手でした。それを克服しようと学生時代には歩いて東北中を旅したり、乾布まさつに励んだりなど、健康に気を遣う生活をしていました。
作造は人に頼みごとをされると断れない性格でした。苦学生の生活の世話、就職の世話、ときには結婚の世話まで。大らかで親切な人柄で誰からも親しまれた作造のまわりは、いつも多くの人で賑わっていました。
作造が亡くなったのは1933年。2年前の1931年には満州事変が起こり、日本は次第に戦争の時代に入っていきます。作造は日本の将来を憂いながら55歳で亡くなりました。
作造が東京帝国大学で政治学を学んだ師が小野塚喜平次です。小野塚は法治主義(法律に基づいて政治が行われること)の必要性や、国民の生活と政治の関係を論じ、作造に強い影響をあたえました。
「古川学人」は作造がしばしば用いたペンネームです。古川で暮らしたのは高等小学校を卒業する14歳までで、その後は仙台、東京と郷里を離れて学問の世界で出世の道をたどりました。作造にとっても古川は「遠きにありて思うもの」だったのでしょうか。
作造が通った宮城県尋常中学校(現在の仙台第一高校)の初代校長は、仙台藩出身の国語学者・大槻文彦です。大槻家は江戸時代には儒学・蘭学に優れた学者を生み出した学問の家で、文彦は日本で最初の国語辞書『言海』を編さんしました。青年時代の作造はこの大槻文彦から、広く世界に目を向けることの大切さを学びました。
憲法に基づいて政治を行うことを「立憲主義」、またそのように行われる政治を「憲政」と言います。作造は民衆の意向によって政治を行うことが世界共通の「憲政」の考え方(デモクラシー)だと論じました。
お酒が苦手な作造は大の甘党。旧制高校時代に初めて食べたアイスクリームは青春時代の思い出です。ヨーロッパ留学中は自分でお汁粉を作り、下宿先のドイツ人にもごちそうしました。甘い物以外ではおでんのこんにゃく。行きつけのおでん屋ではこんにゃくを食べながら研究仲間と語り合い、最後に食べる茶飯が大好物でした。
作造の時代には現代に比べるととても多くの差別が残っていました。政治に参加できなかった女性、病院にも行けない貧しい人、過酷な環境で工場労働をする人――作造は誰でも人間らしく豊かな心で生きられる社会を目指し、教育の機会や誰でも利用できる病院を作るな ど、世のため人のために活動しました。
「人世に逆境はない。いかなる境遇にありても、天につかえ、人につかえる機会は潤沢に恵まれてある」。作造が言論弾圧を受けたときに色紙に書き記した言葉です。「天につかえ、人につかえる」とあるように、作造にとってデモクラシーを伝えることは、世のため人のために尽くすことでした。
兄・作造とともに優秀で知られた弟・信次。信次は作造と同じく東京帝国大学に進み、国の官僚になって日本の産業の発展や東北地方の開発に力をつくしました。後には商工大臣、戦後には運輸大臣も務めています。作造・信次はまさに「末は博士か大臣か」という言葉通りの兄弟でした。
東京帝国大学を卒業した作造は、1910年から3年間、政治学の研究のためヨーロッパに留学、ドイツのハイデルベルグ大学を中心にヨーロッパ各地で学びました。ヨーロッパの進んだ学問や教育、文化を経験したことが、後に大正デモクラシーの世論のリーダーとして活躍する基礎になりました。
親切でどんな人にも分けへだてなく接した作造のもとには、多くの人が様々な相談や困りごとをもって訪ねました。来客が多くなった吉野家では、毎週金曜日を面会の日と定めていました。あまりに面倒見がよかったためか、作造が亡くなった際には、家族が驚くほどたくさんの弔問客がやってきました。
大崎市古川十日町には、作造の生家跡地(吉野ポケットパーク)があります。江戸時代から商業が盛んだった古川には、進んだ文化や教育がありました。1878年に生まれた作造は、この地の豊かな教育や文化の中で育ち、やがて日本に民主主義を広める政治学者として活躍しました。